イエス・キリストが明かす
苦痛:その原因、その解消法
ラージュ(=イエス・キリスト):あなたは天国のど真ん中にいる。
あなたが面している天地万物は何でもかんでも、神が自らを表現しているものにほかならない。だからちょうど今、あなたは神の顔を見る潮時の只中にいるよ。早い話が、世俗の立場から見れば、あなたは神の顔を今にも見る間際に立っている。
ついでにもう一つ言っておく。
あなたの神性はあなたの実相そのものた。なのにあなたはそれを認識していない。だからあなたの神性は常にそれ自身をあなたに認識させようと働きかけている。
あなたの神性はあなたより大きいので、あなたがそれを受け入れようとしなくても、四六時中あなたを押し、あなたを最適な立場に立たせ続けている。緩急よろしきを得た手加減で、穏やかに押す時もあれば、ぐっと押す時もある。
ゆえにあなたはいつも真理をもっと鮮明に認識する間際に立っている。
言い換えれば、あなたはいつも発見への入口に立っている。骨を惜しんでいると思い込んでいてもだ。また力こぶを入れていると思い込んでいてもだ。あなたはいつも本当の現実をさらに鮮明に認識しようとするところに立っている。目先にあるらしい事柄が喜ばしくても悲しくてもだ。また心地よくてもよくなくてもだ。どのように見えてもだ。
あのね、苦痛の原因は何だろう。
苦痛の原因は抵抗だ。ちょうどその場で本当の現実の認識に対する抵抗だ。でも苦しくなればなるほど、人は打開に近づいているものだ。
勘違いしないでくれ。目覚めること、すなわち悟りを開くことには、苦しみが付き物ではない。抵抗すればするほど四苦八苦するものだと言っているだけだ。
それはどういうことか。
一目瞭然だよ。それは何かがあなたに圧力をかけているということだ。圧力をかけているものはあなたの神性なのだ。もう一度はっきりと言っておきたい。目覚めることには苦しみが付き物ではない。
しかし目の前が真っ暗になったら、エゴは逃げ腰になるものだ。そうなったらあなたの本当の姿が見えてくるものだ。
そういうわけで刀折れ矢尽きた人、または絶体絶命とあきらめた人は、コントロールを手放したら、事態が急転する。そのうえ神性で充満し、人生ががらりと変わるじゃないか。
そういう話をよく耳にするだろう。
問題というものを大切にしたり、しがみついたりしてはならない。苦痛がこんなにあるのは、あなたの神性によるプレッシャーが増加している結果だ。それを理解したまえ。
というと、あなたの神性によるプレッシャーが苦痛をもたらしているのか。または苦痛をもたらすのがその神性の目的なのか。
とんでもない。
あなたの神性はあなたの苦痛について何も知らない。あなたの神性というのは、あなたの存在という運動の全体の臨在のことだ。パワフルなものだ。そのように存在している。そのため、自然にそれに対する抵抗を押し切っているだけだ。
だから抵抗すればそれほど人は苦汁をなめるものだ。
では、具体的にどうすればいいだろう。
自分の苦痛が真理に対する自分の抵抗だということに気づくと、人は抵抗するモードから出て、自分自身を卑しめて批判するモードに移りたくなりがちだ。それでエゴにそそのかされて次のようなことを言い出す。
「自分の安らぎを自分で破壊するとは、自分は何と馬鹿なんだろう」とか。「自分の得を自分で拒否するとは、自分は何と馬鹿なんだろう」とかだ。こうしてエゴが責めをあなたに負わせようとする。けどその試みに絶対にはまってはならない。
あなたは過ちを犯しても大騒ぎをしなくてもいい。
過ちを犯したことに気づければ、訂正する必要があるとわかる。それで、自分自身を卑しめないで、また批判しないで、その過ちを訂正すればいいんだ。
自分の苦しみが自分の抵抗の結果なら、自分はその苦しみを処理することができる。しかし自分の苦しみは本当に他人やウイルス・酵素・酵素不足など外側の現象によってもたらされるものなら、自分はどうしようもない状態にいるということになる。
だから自分が自分の苦しみをもたらしているということは喜ばしい発見のはずだ。自分は自分の手に余る事柄に翻弄されていないということになるからだ。
次のように質問することができる。
「じゃ、自分が抵抗してきたとすれば、どのように抵抗しているのか」とだ。そこで自分自身を哀れむことに耽らないようにすれば、また卑しめることに耽らないようにすれば、その答えをもっと容易に聞くことができる。
なぜ?感情や反応に駆られないでその答えを認識しているところでは、その答えは火を見るより明らかになるからだ。そこで自分は有罪になるのではなく、解放されるということに気づく。
次のことを言う。
「おお、そえうか!何で気づかなかったんだろう!もうこの手に乗らないぞ」と。そこで苦しみの元を手放す。そこで治癒する。しかも罪悪感なしでだ。
次のことを心に留めておけ。
あなたのことは自分のエゴではない。あなたは自分のエゴと同一ではない。
自分のエゴとは、想定というものでできた塊だ。この想定集は外見上整っている、しかも定義できるように見えるけど、エゴは虚偽の塊だ。なのにあなたはあの塊を自分のアイデンティティとして採用している。しかしあれは一から十まで架空だ。
仮想にすぎないのだ。
あなたのことは自分が
仮想しているものじゃない。あなたのことは
仮想する能力をもつものなのだ。
さて、エゴは罪を犯している。実在しないのに実在すると主張するという罪だ。だからしょっぱなから有罪だ。
以前にも言ったように、エゴは想定された臨在だ。実際の臨在ではない。この無存在という生地が出るのではないかと常に懸念している。あなたが気づかないようにするためには、あなたの気を散らしている。そのためにエゴの最も効果的な手段は、あなたの心の中で罪悪感をかもし出すことだ。
なぜ罪悪感か。
あなたは罪悪感にふけってしまうと、その罪悪感から解放される根拠が見当たらなくなるからだ。そこであなたの助けの源はどこにあるのだろう。エゴの術中に陥っている間、そんなものがないように見える。しかし本当はあるのだ。
助けの源は神だ。
そう、知性の表現である神だ。その知性の表現というのは、他人があなたのことだと認識し、またあなたが他人のことだと認識するものだ。エゴにかもし出される罪悪感をはねつけるために、あなたの助けの源は神なのだ。
神は天地万物を構成している臨在だ。存在するのは神だけだ。ゆえにそこにいるあなたも神の臨在だ。これが根拠だ。この根拠であなたは自分のことが潔白だと主張しなければならない。
あそこにあなたが座っている席には、人格と呼ばれるちっぽけなものがいるように見えても、本当はそうではない。そこにはエゴと呼ばれる、取るに足りないのに横柄なものもない。
そこに座っているものは、生命の運動として存在している神だけだ。
他人がそれをあなたのことだと認識しているけど、神なのだ。こうして神という助けの源を当てにすることができる。そして自分が潔白だと、知性的にも合理的にも主張することができる。そして、罪悪感を正当化するどんな妄想からも出られる。
あなたたちは一人残らず、今、青天白日なのだ。
あのね、誰にも、「やれやれ、原点に戻るしかねえな」などと言ったことがあるだろう。それは「失敗したな、元の木阿弥になった」という感じの発言だ。しかし「原点」とは、清浄と潔白という意味だ。原点に戻ることはすばらしいことだよ。
オーストラリア国サウスポート市
1989年集会の抜粋
チャネラー:P・タトル
英日翻訳者:K・ヤマダ
翻訳文改訂:2011.04.16
英語原文 |
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