イエス・キリストが明かす
瞑想法 ―その2:鼻柱

ラージュ(=イエス・キリスト):《答える途中》
...静かになるために時間を取り、静かな境地に沈んだとき、自分がハンモックに横たわっていると想像してほしい。その間にハンモックの両端が近づき合うので、自分が更に深く沈んでいると続けて想像してほしい。
別の言葉で言えば、安らぎが更に深くなるように、コントロールを更に手放してほしいということだ。
いいかね、成し遂げようとする気力を減らすことで、成し遂げられるようになるのだ。
これは難しそうだろうけど、そうでもない。
役に立つテクニックがあるんだ。呼吸しながら、空気が鼻腔側で鼻柱を通過する感覚に注意を払うということだ。その感覚に注意を止めればいいんだ。
たまにある考えや一連の言葉が注意をそらすものだと分かる。瞑想をする前にやるべきだったのにうっかり忘れたことを思い出すこともある。こんなとき、注意を鼻腔側での鼻柱と空気の感覚にそっと戻せばいい。
しばしば、鼻柱に注意を払っていなかったのに、考えていることも何もなかったということに気付くだろう。こんなとき説明できない時間の間隔を過ごしたことに気付く。この間隔には、自分は純粋な意識そのもので、あらゆることをすっかり意識しながら、何ものにも引っ掛けられていなかった。
つまり感情的にも知的にも注意が何ものにも捕らわれていなかったのだ。
これが起こる瞑想には、安らぎの経験は特に深い。こうした安らぎを経験すればするほど、益々自分の存在の本質になじむのだ。なぜなら、この安らぎは自分の本質を直接に経験していることだからだ。
以前にも説いたように、エゴは起こるべきだと思うことを起こそうと、手口を絶えず探り出しているものだ。そんな手口として、あなたが安らぎを経験しているので何かが起こるべきだということを示唆する。
そこであなたは、ぐるりとまわりを見、すばらしい出来事が何も起こっていないことを確認するだろう。静かになったことで有意義な得がないと見なすかもしれない。しかしそれはエゴの示唆だ。
その術中に陥るな。
その安らぎの経験は自分の実相存在の安らぎを直接に経験したことだと知っておきな。この経験は、あなたの中におられる神との最初の直接的接触だと言える。これがぴんときたら、こうした安らぎの経験はぐんとめぼしくなる。.....
《20分ぐらい飛ばして》
↓
次の次の質問者:わたしは頭から出て瞑想しようとしますが、なかなかできるようになりません。わたしのために特定のアドバイスをいただけたらと考えておりました。落ち着いて静かになろうとしても、なかなかできません。
ラージュ:20分ぐらい前にわたしの明かした瞑想法はあなたにもふさわしい。マントラ、または自己催眠リラクセーションテクニックの採用は、あなたにとって賢明ではない。要するに、単語を形作るような精神活動を必要とする瞑想法はあなたには不適切だということだ。
鼻腔側での鼻柱の感覚に注意を払うだけでいい。そうしたらあなたは思考を要しない過程に入ることになる。それが思考過程と無関係なので知的干渉が減る。このおかげであなたが自分の中心部に沈むことは大分楽になる。
よろしいか。
この遣り方を勧める。注意を鼻柱に集中させるのだが、猛烈な意気込みでやってはいけない。手を離し、注意を鼻柱にそっと止めればいい。
質問者:それこそやりにくいところです。
ラージュ:コントロールを手放して任せることがコツだ。鼻柱での感覚に注意を集中させるのには、必要なコントロールは最小限度になる。このため、コントロールを働かせるほかの活動が引き起こされない。
穏やかにやるのだ。
気が取られたことに気付いても、穏やかにやるのだ。自分を責めてはいけない。鼻柱に注意を払っていないということに気付ければいい。
ただ気付くだけでいい。そうしたら注意をそっと感覚に戻すのだ。
すべてを穏やかに行うのだ。反応がないようにしろ。反応は不要で何の役にも立たないのだ。ただ気付くだけでいい。そうしたら注意をそっと鼻柱に戻すのだ。
アリゾナ州セドナ市
1987年集会の抜粋
チャネラー:P・タトル
英日翻訳者:K・ヤマダ
翻訳文改訂:2011.04.16
英語原文 |
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