イエス・キリストが説く
生涯とは何ぞや

質問者:わたしたちの実相の存在が永遠だとすれば、生涯というのは一体何でしょうか。《質問の概要》
ラージュ(=イエス・キリスト):先ずは、「実相の存在」という言い方を名詞としてではなく、動詞として理解しなければならない。
名詞にするなら、それが輪郭と分離と分割のあるものと概念化され、拡大されたエゴという意味になってしまう。動詞としてなら、当然、運動、すなわち命を示す。ゆえに言ってみれば、実相の存在はそれ自体を永遠に繰り広げているものだ。
前世と来世、すなわち過去と未来の生涯は、エゴが投射しているものだ。
存在という運動は、意識の瞬間の中で、ことごとく行われているものだと理解しなければならない。無限なので、どの方向へも進んでいるわけではない。
質問者:ラージュさんもその瞬間の中にいらっしゃいますか。
ラージュ:わたしもあなたたちも皆この瞬間の中にいるよ。
しかし、エゴの視点からみれば、この瞬間は、概念的に、過去から未来へという時間線に投射されている。エゴは実際に今行われているところの充足の方へと向かっているところを見ている。無限の事柄を伸ばして前進線に付けている。
このことを知的に把握しないでただ聞けばいい。
目覚めが起こると、エゴの歪曲が無くなるものだ。そうしたら、前世と思われる現象は、あなたにとっていかにも本当らしく見えても、それを投射していたエゴほどの幻想だったということが明らかになる。
目覚めは、夜にベッドで、ある人生経験の夢を見た人が朝起きたようなことだ。目覚めたら、あなたは生涯を通過したことが一度もなかったということに気付く。段々目覚めるための過程を通過したことがなかったということが明確になってくる。
先ほど言ったように、これを知的に把握しなくてもいい。
時間の感覚も、進歩の感覚も、達成の感覚も幻想だ。エゴが投射しているすべては幻想だ。エゴは成し遂げることを肥やしにして盛んになるものだ。特に逆境の中でね。
ところが、あなたの存在という運動の全体は、この瞬間の中でことごとく機能している。
存在という運動は充足そのものだ。だからエゴが自らの手柄にすることは何もない。これこそエゴがこんなに激しく自己防衛している理由だ。あなたが自分の存在という運動の充足を経験することは、エゴにとってまずい。
前世は幻想だ。と言っても、経験された幻想だ。夜にあなたが見て経験した夢と同じように、思い出として残るものだ。
カリフォルニア州カーメル村
1995年集会の抜粋
チャネラー:P・タトル
英日翻訳者:K・ヤマダ
翻訳文改訂:2011.04.16
英語原文 |
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