イエス・キリストが明かす
悟りを開くカギ

質問者:目覚めるために、そしてエゴを取り除くために、お勧めくださるやり方がありますか。
ラージュ(=イエス・キリスト):エゴと取り組んではいけない。昨日説いたように、エゴは高度な技術を持つ防御機構だ。真っ向勝負、またはひざを突き合わせた対決では、あなたはエゴに勝てるはずがない。
かいつまんで言えば、目覚めるには、ある根本的なことに気付く必要がある。それは自分自身について、また人生について、自分が今のまま知覚している事柄がほんの一部にすぎないので、それより多く知覚すべきだということだ。
ほかに、それをもっと実相のままで経験したいという欲望が必要。
この欲望は運動している感情だ。この運動はあなたが付けているものではない。感情は運動そのものだから感じられるものだ。
この欲望はエゴに対して感じるものではなく、心から湧いてくるもので、言葉で言い表せない。
この欲望はエゴを攻撃しない。またそれ自体で完全なものだから、この欲望を持つことは、あなたは事実上自分を乗り物に乗せたことになる。自分を自分の存在という運動と同調させたことになる。
自分の存在の意図はみずからをバッチリ充足することだ。ゆえに意識するということは充足の運動だ。
この運動のことは、「創造」と一般に呼ばれている。
自分の内側で、自分を創造と同調すれば、エゴの範囲から抜け出されることは止められなくなる。
カギは欲望だ。
欲望は「祈り」と呼ばれることもある。もっとも祈りは知的に行われ勝ちだ。「天のお父様、これをくださいませんか」「天のお父様、あれが要ります」「水泳プールが欲しくてたまりません」このように頭で行われ勝ちだ。
ただのざわめきにすぎない。
自分の内側に沈んで自分の存在という運動と結び付く結果ではないからだ。自分の存在という運動には、感情と運動があるのだ。これこそ本当の欲望だ。
自分が欲しいと考えているものは、習い性によって決まるものにすぎないのだ。この範囲からぬけ出るときが来ている。
そして前にも説いたように、自分の内側に沈むときが来ている。
キリスト教また聖書では、「なんぢは祈るとき、
己が部屋にいり、戸を閉ぢて隠れたるに
在す汝の父に祈れ」《マタイ伝6:6》と言われている。これは自分の中心部が神の存在なので、神との結び付きは親密で自分の中心部にあるという意味だ。
自分の本質的存在に注意を向けると、創造の原動力を感じる。その結果、充足の経験がある。
それだけではない。
無限の乱され得ない安定性の経験がある。これは自分の永遠性の経験だ。すなわち常に新しく展開しながら、永遠に侵されない個人性の経験だ。
それゆえ喜びの経験となる。しかも愛の経験となる。この愛は知的ではなく、自分の意識的経験の基本組織を構成するものだ。この愛の広がることは止められない。
この欲望は実相の自分を知る道だ。
実相の自分を知るために、つまり経験するために時間を取っていることは、真実を発見するために時間を取っていることとなる。しかも「神」という言葉の本当の意味を発見するためにも時間を取っていることとなる。
神のことは経験だ。すなわちあなたの本質的存在の経験だ。
神のことを知りたければ、実相の自分を知れ。両方とも同じものだからだ。
だから、自分の存在の運動が感じられる場所である自分の中心部に沈むようにしろ。これをするのには、どの効果的な方法でもいい。これはエゴの範囲から抜け出して目覚めるために最も直接のやり方だ。
効果的なら、どの方法でもいい。
ところで、前に説明したように、覚醒剤をやることで意識的自覚が拡大されるように思わされるけど、その働きはエゴの範囲内だけで起こる。本当の拡大になっていない。だから「効果的」に見えても、そうではない。
人為的にではなく、自然に内側に沈むようにしろ、自分の中心部に沈み気が休まるようにしろ。要するに発見の入口に移るようにしろ。どの効果的な方法でもいいからそれをやれ。
理解してもらいたいのは、この行為は複雑性がなくてもいいほど自然だということだ。
ゆえにヨガは、トランセンデンタル・メディテーション(超越瞑想=TM)やお風呂につかることより効果的ではない。
それどころか、初心者にとっては遅らせる向きがある。なぜなら、ヨガでは肉体的訓練を経なければ静かになることができないからだ。しかし、肉体的訓練を経なくても、数分間椅子に座ってリラックスして自分の内側に向け、知りたいと望むだけでいい。
ニューヨーク州ベア・マウンテン地区
1986年集会の抜粋
チャネラー:P・タトル
英日翻訳者:K・ヤマダ
翻訳文改訂:2009.04.29
英語原文 |
|
| 目次 |