イエスご自身が掌を指すようにACIMを解説...
奇跡の50原理(その4)
ページ位置の確認: T1:1:47〜50
(ACIMテキストブック第1章、第1部、第47〜50節)
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《挨拶省略》
ラージュ(=イエス・キリスト):ACIMで言う「奇跡」という用語には特定の意味があるわけですが、初めて顔を出してくれた方々のために、その意味を簡単に述べてくれる人はいないかな。
出席者:奇跡とは意識が移るということです。つまり物の見方が移るわけです。
ラージュ:そう、さっと移るのです。精神的に力むことなしですうっと起こる意識の移りですね。
この移りは自分が精神的に防御していないときに自然に起る。
要するに、ありとあらゆるものの意味が分からなくなった、またはその意味に対する確信がなくなったので、ニュートラルな立場をとったときに起こるわけです。そうなったら明瞭さが射し込んでくることが可能になり、実際に射し込んでくるんです。
なぜ?それがあなたの心の自然な働きだからだ。
生命の意味に対しても、ありとあらゆるものの意味に対しても、あなたたちは勝手に定義を決定した。てこでも動かないはっきりした定義ですね。しかも自分たちの決定した条件で、それらの定義を受け入れ、それらの定義に縛り付けられるはめになってしまった。このように、流体のはずのあなたは凝固してしまったわけです。神の子としてはもったいない。
それだけではありません。
あなたたちの経験している物事は何もかも神の臨在だ。昼夜をおかず天地を創造せられている神の臨在なのだ。ところがあなたたちはそのことには気づいていない。物事の意味がわかっているという思い込みが妨げになっているわけだ。
そればかりか、あなたたちは間断なくそれらの定義をさらに強化しているんだ。ところがその営みから意識がすぽんと抜け出す隙間には、神の存在であられる天地創造という運動を意識的に経験することができる。
『コース』《=奇跡のコース/奇跡講座》でいう「奇跡」とは、そのことです。取りも直さず知覚がさっと移るということなのです。知覚が移ったら、森羅万象は違ったふうに目に映ってくるわけです。
この経験には、特徴が二つあります。
一つ目は、自分の注意の対象物には、神性があるということを何らかの様式で肌で感じるということです。対象物が人間であっても、動物であっても、自然界であっても、宇宙であってもだ。その対象物について自分は複数の定義を抱いているが、その対象物を軽視する定義は皆、新しい明瞭さにぱっと置き換えられる。
二つ目の特徴は、対象物の神性が真っすぐに神から生じているということを肌で感じるということです。その対象物を経験することは、神のある面を経験するということだということも自明の理となる。
さて、この知覚がさっと移ることは、有るか無きかほとのことになる場合もある。
話し相手のことについて自分の意識が翻然とがらりと移るのに、何の変哲もない言葉が口をついて出るだけというようなこともある。その言葉が話し相手の胸をざっくりと突き、妄想を払い出し、心機一転を引きに起こしても、自分にとっては、有るか無きかほどのことにすぎない。
経験はもっとドラマチックになる場合もあるが、自分の世界と接触する際、奇跡というのは優しさ・親切・思いやり・慈悲・愛を超越するようなものではない。誤解しないように。
そういうわけで奇跡は単純なものです。でありながら波及効果をもたらし、自分が表現した単純さをはなはだしく超えるものになりかねません。
では、奇跡の原理47から前回の続きをしましょう。
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奇跡は時の必要性を減少させる学びの手段だ。時のパターンから外れた、時の通常法則に影響されない隙間を開く。この意味では、奇跡には時というものはない。
奇跡の原理47(T1:1:47:1-3) |
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ラージュ(=イエス・キリスト):では、「時のパターンから外れた隙間」を巡っては、ここでは変わった話はしません。
単純なことだけを言っておきます。
神は万物を
顕現させることに当たっては、それぞれの物に特定の意味を意図しておられる。ところがあなたたちは、自分たち同士で決定した定義を勝手にそれらの物に与えることにしてしまった。
そこであなたたちは神の
御意と異なる心理的な知的境地に入ってしまったんだった。その境地では、物事は線形的にしか経験され得ない。
線形的?
線形的に起こる事は何であれ、必然的に「時間」というものを伴う現象だ。たとえて言えば、線形的な経験はくねくねした山岳道路を走っているようなことだ。割りに平坦な道路なので、前方のカーブを曲がるまでは、曲がったところの様子が見えない。
それは時間を必要とする。
しかし垂直に空につーっと上がれば、カーブを曲がったところの様子ばかりか、全景を一望に見渡せる。そうなれば、時間がかからなくなる。つまり道路を走らなくてもいいわけですね。
「時のパターンから外れた隙間」とは、時の線形のレールから抜け、つーっと上昇するということだ。ただそれだけの意味だ。その高所からは、地形を
俯瞰することができる。間違った方向へ向かっていれば、それが一目瞭然となる。
線形的に進めば、カーブを曲がったところの様子を見るためには、時間を必要とする。しかし高地から俯瞰すれば、その時間を省くのだ。
じゃ、別の言い方にしまよう。
「物事がうまくいっていない」「何もかもおじゃんになりそう」「進み得る道はこれしかない」そのように思い込むと、自分自身をその見方の立場の中にガシッと閉じ込めてしまうはめになる。
だから好奇心で物事を新しい見方で見ようとするつもりで、快く故意に一休みし、静かになり、絶望感を一瞬間だけでも快く故意に手放さなければならない。そうすれば明瞭さが差し込める隙間が生じてくるんだ。
その明瞭さでは、あなたはすうっと新しい見方に達するのだ。線形の論理的な思考過程を経ないで達するのだ。なぜならその明瞭さは、言ってみれば、あなたを新しい認識の中にさっと移動させるからだ。その認識では、新しい経験をするためのやるべきことが自明になるんだ。
「時」と知覚されるものは思考過程に内在するものだ。だから、時間を要しない、ぴゅんと差し込む明瞭さでは、あなたは「時」から抜け出すわけだ。
かいつまんで説明しましたが、そういうことです。
じゃ、続けましょう。
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時を制御するためには、奇跡は人がすぐに利用できる唯一の手段だ。時を超越するものは啓示だけだ。啓示というものは時とまったく無関係なわけだ。
奇跡の原理48(T1:1:48:1-2) |
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※ ナチュラルスピリット社の邦訳版では「啓示のみが・・・奇跡を超越することができます」は誤訳。「奇跡を超越」ではなく、「時を超越」が正しい解釈(HLC版のブラグラフ「T
1 B 51a」をご参照)。また、「することができます」も誤訳で、ただのナンセンス。
――K・ヤマダ |
ラージュ(=イエス・キリスト):「時を制御する」という部分を見てみましょう。
学ぶということには時間がかかるように見える。しかし奇跡はあなたを時という錯覚から実際に取り出してくれる。それによって、あなたは時の見掛けの必然性を制御することができるんだ。もっともあなたが制御できるのはそれだけ。
時というものがあなたを制御することは、奇跡によって解除されるわけだ。「時を制御する」とは、そういう意味なんです。
《Q&A省略》
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奇跡では、錯覚の度合いの区別はない。奇跡は錯覚を修正する手段であり、ずれの度合いや方向とはまったく関係なく効果を発揮する。これが奇跡の真の無差別性だ。
奇跡の原理49(T1:1:49:1-3) |
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ラージュ(=イエス・キリスト):その通りです。錯覚というものは錯覚にほかならないわけだ。大小の影響を及ぼすように見えるのは、錯覚そのものではなく、錯覚のもたらす結果なんだ。
だけど錯覚はほかでもなく、ただの錯覚だ。
ブヨとして現れる生命は、象として現れる生命より少ないわけがない。生命の度合いはない。ノミであろうと、象であろうと、生命は完全で、完全に生命なのだ。同じく、大きな錯覚もなければ、小さな錯覚もないんだ。
錯覚は錯覚だ。それ以外のものでもない。また、奇跡は錯覚を修正するものだ。それ以外のものでもない。
錯覚には、大きさの度合いがない。よって一つの錯覚は、もう一つの錯覚に比べて、より大きな奇跡を必要とするわけがない。
これは甚だしく重要なことだ。
なぜ?これを理解すれば、問題に直面するときには、気楽な気持ちでその問題を対処することができるからだ。
理解しないなら、何もかもが最悪の状態になり、万事休すだと思い込んでいるときには、悲鳴を上げるじゃないか。だけど理解するなら、そんなときには、ただばたっと止まって、言ってみれば、素朴な好奇心をちょっと表すだけで済む。
素朴な好奇心というのは、何もかもが崩壊してしまうという確信で歪められていない好奇心だという意味ですね。
それだけすればいい。それがどれほど有益になるか。錯覚の大きさの度合いがないということを理解すれば、わかってくるはずだ。そのちょこっとした乗り気では、ちょこっとした明瞭さが差し込むのだ。そしてそのちょこっとした明瞭さでは、錯覚がすっと修正されるのだ。
そういうわけで、自分の内部にある明瞭さでは、知覚される問題および想定される結果が大きく見えても、それを修正することは、小さく見えるやつを修正するよりも難しくないんです。
よろしいですか。
その理由で、この奇跡原理を理解することは甚だしく重要。理解すれば、問題に直面するときに、気楽な気持ちで対処することができるからだ。錯覚の修正とともに、問題も解決してくるんです。
錯覚を修正することはへのかっぱですね。
おお、やっと奇跡原理50番にたどり着いたぞ。いつまでたってもたどり着かないと思っていたんだろう。
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奇跡では、人の作り上げたものは神の創造されたものと対照される。神の創造されたものと一致する部分は本当として受け容れられ、一致しない部分は嘘として拒絶される。
奇跡の原理50(T1:1:50) |
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ラージュ(=イエス・キリスト):まずACIM用語に精通していない方々のために、この言い回しの意味を説明しておきたい。
「人の作り上げたもの」とは、神の創造されたものの実相に対して、あなたたちが決定した、命を懸けるほど固く信じ込んでいる定義のことだ。それは、言ってみれば、あなたたちが空想で作り上げたものだ。
奇跡では、あなたたちの作り上げたものは、神の創造されたものの実相と対照される。それと一致する部分は本当として受け容れられる。
ということは、実相と一致する部分はある。あなたたちは何でもかんでもすっかり誤認しているのではない。要するにあなたが経験する一部は、神の創造されたものに対する実際通りのものなわけだ。
そういうわけで、実際通りの部分が受け容れられ、そうでない部分が拒絶されるのだ。道理で自分の意識がさっと実際通りのほうへと移るわけだ。ついでに言っておくけど、これは思考過程ではなく、体験としてあなたの内部で起こることですね。
それであなたは新しい見方を経験する。この新しい見方では、物事に対する自分のとらえ方が嘘だったということに翻然と気づく。身をもって気づくので紛れもなく嘘だとわかる。したがってそれが役に立たないものとして、当然それを放棄する。
そのように、何の過程も経ないで、新しい境地にすうっ移ることを体験できる。
それが奇跡というものです。
繰り返しますけど、奇跡は例外なく効果をもたらすものですね。自分の物の見方にだけではなく、世界に対する自分の振舞いにも。兄弟《=男女を問わず自分以外の人》に対する自分の振舞いにも。しかも自分の中に射し込まれる明瞭さ、すなわち兄弟または世界の実相に対する知覚は、言葉で表現されなくても、必ず影響を及ぼすのだ。
その上、自分の世界からの変化を引き起こすか、あるいは変化に弾みをつけるのだ。
どういう変化かといえば、「超自然的」と言っていいものもある。病気がぱっと治るとか、心理療法の過程を経ないで人間関係がぱっと調和的になるとかだ。
しかしそういうのは奇跡の効果であり、奇跡自体ではないんです。
では奇跡自体というのは何でしょう。
ありとあらゆるものを巡って、あなたたちは数々の定義を決定した。しかも、絶え間なく、それらの定義への信頼を強化している。こうして物事の実相に対して、防備を固める羽目になっている。
だが、何らかの方法で、一瞬間でけでも、その防備を下ろすことができたら、隙間ができる。数々の定義への信頼を強化していない隙間だ。この隙間には、物事の実相がぴんと心に響くことが可能になる。それが奇跡というものです。
コースでは、「奇跡」という用語はそういう意味です。
お茶の子さいさいじゃないか。学位を取得しなくてもできる。努力は一切不要。
というよりは、奇跡は自分が努力していないときに起こるものだ。自分が謙虚になっている瞬間には起こり、安らいでいる瞬間には起こり、力んでいない瞬間には起こるのだ。
それほど簡単。
自分がむりやりに押していない瞬間は極めて重要。あなたたちにその重要性に気づいてほしい。わたしがこの話を持ち出したのはそのためなんです。
《以下省略》
ワシントン州キングストン郡
2002.09.11のACIM Study Group
チャネラー:P・タトル
英日翻訳者:K・ヤマダ
英語原文 |
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